「キューバと日本」カテゴリーアーカイブ

キューバ・青年の島の島津三一郎さん

※ヘッダー写真は2008年の稲作支援計画視察ツアーにて老人ホーム訪問時の様子

新聞やテレビなどでも報道がありましたがキューバ日系移民一世の島津三一郎さん(キューバ・青年の島在住)がお亡くなりになったというお知らせが届きました。
以下は青年の島の湊・ナンシーさんから届いたメールの訳文の一部と(原文)です。


 

キューバと日本に大きな悲しみをもたらすお知らせです。私たちは日系移民のシンボル的存在を失いました。

日系移民のシンボルが去る2016年7月10日(日)、亡くなり、月曜日午後3時にフランシスカ・ナビア・クアドラド老人ホーム、青年の島日系人協会、保健所とその高齢者支援部門、自治体、党地方支部、地方紙の新聞社により埋葬が執り行われました。
彼らの臨席のもと、渡辺勝日本大使をはじめ日系人家族、彼の友人たち、そして、彼をすばらしき息子の一人として暖かく迎え入れてきた老人ホームから花輪が捧げられました。
故 島津三一郎(みいちろう、またはさんいちろう。キューバ人は単純にミゲルと呼ぶ)は青年の島の最高齢者でしたが、キューバ全体でも今現在では最高齢だったかもしれません。
彼は明治40年、1907年12月24日、日本の新潟県で生まれ、1928年春、5月6日にキューバに来ました。日本では子どもの日としてお祝いをする日の翌日です。彼は最期を迎える日まで、明るく幸せに満ちた子どものように生き、キューバでその生を全うしました。彼は「私はもうキューバ人だ。日本での年月よりずっと長くここにいるのだから」と言っていました。
2009年6月16日、在キューバ日本大使館から、かの国の総理大臣に任命された当時の日本大使 西林万寿夫さんをはじめとする代表の方々が島に来られました。
彼が「不平も言わず、不足を嘆かず生きてきた」と108歳になるまで誇らしく言っていたことはよく知られています。109歳になるまで残すところあと6カ月でありました。私たちは、彼を細心の心遣いでお世話をしてきた施設の働く人たちや仲間たちに看取られ、静かに、そして誇りに満ちて旅立ってゆくのを見守りました。彼らは、きっと彼の不在を寂しく思うことでしょう。

島津さん、どうか安らかにお眠り下さい。

私の哀悼の意が届きますように。
ナンシー・オロペサ・バルセロ
青年の島 湊家

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日本語訳—Sra. Kumiko Murakami

 

 

 

A Cuba y Japón los invade una gran tristeza hemos perdido un símbolo de la emigración japonesa.

Un símbolo de la emigración japonesa, acaba de fallecer el pasado domingo 10 de julio de 2016, su sepelio se efectuó el lunes a las 3:00 pm, conducido por la dirección del Hogar de ancianos Francisca Navia Cuadrado, La Sociedad de la Colonia Japonesa de la Isla de la Juventud, la Dirección Sectorial de Salud Pública y su departamento de Atención al Adulto Mayor, el Gobierno y el Partido Municipal, y la prensa localidad.

Se le hizo guardia de honor por los allí presente y presidía su funeral la corona enviada por el excelentísimo señor Watanabe Masaru, Embajador del Japón en Cuba, las del Partido y Gobierno local, y otras de las familias de descendientes y de sus amigos y dirección del Hogar de Ancianos que lo acogió en su seno como uno de los más distinguidos de sus hijos.

Miichiro Shimazu Kumazu san (Sanichiro o simplemente Miguel para los cubanos) es quien acaba de fallecer, el adulto mayor de más edad de la Isla de la Juventud, y posiblemente el hombre que más haya vivido hasta la actualidad en Cuba.

Nació en Niigata, Japón un 24 de diciembre de 1907, Año 40 de Meiji. Llegó a Cuba en la primavera de 1928, mayo seis, un día después de celebrarse en Japón el día de los niños y de esta forma como un niño alegre y feliz vivió en Cuba hasta sus últimos días, el mismo decía que ya era cubano, por haber vivido más tiempo acá que en Japón.

En junio 16 de 2009, llegaba a la Isla una delegación de la Embajada del Japón en Cuba, encabezada por el entonces Embajador excelentísimo señor Nishibayashi Masuo, quien lo condecoraba en nombre del Primer Ministro de su país.

Él siempre expreso que había vivido, sin quejas y sin faltas, y así con esos honores, es reconocido hasta la honrosa edad de 108 años, y solo faltando seis meses para llegar a los 109 años de edad, lo hemos visto partir en breve y silenciosamente, llenando de orgullo a esos trabajadores y compañeros del hogar, que lo cuidaron y mimaron con tanto esmero, y que mucho lo extrañarán.

Desde sus 100 años (2007), el joven Nakano Kenta san su coterráneo japonés ha historiado su vida, y ya cuando estaba a punto de terminar su historia, que triste noticia para todos, Cuba y Japón pierden un símbolo, de la emigración japonesa a Cuba, el último en despedirse, Shimazu san, Descanse en Paz.

Llegue mis más sentidas condolencias, por tan sensible pérdida.

Nancy Oropesa Barceló

Familia Minato de la Isla de la Juventud.

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2015年 11/28(土)

 6時のバスでシロレドンドへ行き、あまった衣服を渡す。
 エドワルドからヨシコへ渡すようにコーヒー、タバコ、ラム酒!を預かる。結構な荷物になる。
 アルベルトが今年栽培している米の生育経過の写真をコピーする。なお、最初の収穫は12月1日、ハバナへ渡る日である。
 10時過ぎにエドワルドの家の前で遊ぶ子ども達に竹とんぼを渡すと夢中で遊んでいた。また、割れたかわらや壊れた鍋でママゴト遊びをしている。50年前?の日本のシーンを見るようだ。
 5歳から8歳の子ども、一旦慣れると人懐っこく、接してくれる。もう少し早く、対応すればもう少し親しくなれたと思われる。
 午後1時のバスで帰宅。
 ノボルとクラウディアの訪問を受ける。クラウディアは松矢さんへの手紙とプレゼント(これもガラス製!)を持ってきてくれた。感謝。
 ナンシーに夕食をご馳走になる。普段使えるご飯茶碗がなく、足袋もないとのこと。次回に持ってくることにする。

お土産のトランプはキューバで売っていない。ババ抜きはみんなが楽しめた。
お土産のトランプはキューバで売っていない。ババ抜きはみんなが楽しめた。
シロレドンドのアルベルトの家の前で、竹トンボを渡したら夢中で遊んでいた
シロレドンドのアルベルトの家の前で、竹トンボを渡したら夢中で遊んでいた
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2015年 11/21(土)

 ICAPでは朝から、ICAPの本部役員とロンを飲みながらドミノを楽しんでいた。
10時からの日本文化週間の武道の演武会を見に行く。空手、柔道、合気道で子ども達も多く参加している。その後、囲碁をしていたので一緒に楽しむ。
昼食後、22日の評価会の説明原稿を作る。
午後8時過ぎに日本文化集会の会場へ行き、その後、夕食会に参加した。

日本文化集会での空手の実演、中央はベリンダ
日本文化集会での空手の実演、中央はベリンダ
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2015年 11/20(金)

 シロレドンドへビール等を運び、その後草取りをする。少しずつは綺麗になっているがまだまだ草が残っている。
 エドワルドの母豚が19日に出産、11匹産む。
 1時30分のバスでヘロナへ帰る。
 3時過ぎにICAPの55周年記念レセプションの食事かに招かれ、ご馳走になる。日本酒を提供。
 4時過ぎに日本大使館主催の日本文化週間の開会式会場へ行き、大使館の伊藤さんと会う。
 伊藤さんによると飛行機が遅れたことと受け入れ側の対応が悪く、人集めに苦労していた。プラカードを持っての宣伝を手伝う。
 8時過ぎにICAPの記念集会、その後、日本文化集会の開会式へ参加した。疲れる。就寝12時すぎ。

日本文化週間の展示品の前で日本大使館の伊藤さん、人集めに苦労していた
日本文化週間の展示品の前で日本大使館の伊藤さん、人集めに苦労していた
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2015年 11/13(金)

 ノボルの家へ行く途中でバケツをひっくり返すような雨、未だ乾季にならないようだ。つまり、いつまでも気温が高い証拠だ。
 村上さんからのメールを受け取る。村上さん、選挙ご苦労様。
 昼食後、タバコと歯磨き粉、コーラを買う。後はライターがほしい(売っていない)。
 3時過ぎにICAPでは労働組合の集会、その後誕生会でケーキが食され、相伴に預かる。日本では職場の人間関係が希薄だが,このような取り組みも大切に思われる。

朝の大雨、靴屋さんの軒下へ避難
朝の大雨、靴屋さんの軒下へ避難
ICAPの誕生会、ケーキをご馳走になる
ICAPの誕生会、ケーキをご馳走になる
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2015年 11/11(水)午後7時以降

 午後7時にナンシーの家へ行く。
 松矢さんのお土産と手紙を渡す。松矢さんの健康を心配していた。また、花札・いろはかるた、新潟の村井さんから預かった唐草の風呂敷を渡すが、いずれも始めて目にするもので喜んでいた。
 夕食はチキンがメイン。大変なご馳走である。
 また、その後、もう一人の「松矢さんのキューバの孫」のクラウディアのも土産を渡すが、ナンシー同様に松矢さんを心配していた。
 12月10日に島津さんを取材にケンタサンが来るとのこと。日本で電話を貰った人である。
 ナンシーは既に私たちに土産を用意しており、「ハバナ」と書いてあるTシャツを貰った。
 なお、翌日からナンシーはハバナへ出張とのこと。

松矢さんの孫?のクラウディアが松矢さんからの贈り物を喜ぶ
松矢さんの孫?のクラウディアが松矢さんからの贈り物を喜ぶ
ナンシーが松矢さんからの贈り物を喜ぶ
ナンシーが松矢さんからの贈り物を喜ぶ
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2015年 11/6(金)

 午前中に日本大使館で小林領事と面談。キューバとアメリカとの国交回復で変化は無いそうだ。ただし日本人訪問は1.6倍に増えたとのこと。また、お盆のときにナンシーが文化功労で大使表彰を受けたとのこと、また、その時、日本人の家の説明を受け、大使館でも飾りの設備の支援できないか検討するとのこと。11月下旬から駒瀬3等書記官が島へ訪問するとのことだった。
 その後両替したが、1万円で77cucだけ、多い時の2/3にしかならず。タバコとコーヒー購入。2時15分にホテル出発。迎えはオズワルドだった。松矢さんの話をすると非常に心配をしていた。
 飛行機は5時15分に出発せず、0時過ぎに出発。1時ごろ、島の飛行場へ到着。エステバンとノボルの出迎えを受け、ホッとする

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“ 上河ヨシコさんを囲んで ”

さる9月27日、坂戸市にてキューバのフベントゥ島(青年の島)で暮らす “キューバ移民一世” の『上河ヨシコさんを囲む会』が催されました。
ふるさとの日本へ11年ぶりの帰国、キューバで暮らしているからこそ、今の日本に思うこと感じたことを織り交ぜつつ短い時間ながら参加者の皆さんとの交流が行われました。

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キューバをおもって

今年3月、11年ぶりにキューバの島から日本に帰ってきました。
 来てから3日目。知人とアベノで待ち合わせ。
 ケイタイも時計ももっていなかった私は、キューバではどこでも誰にでも尋ねられる“今何時ですか?”という言葉を、誰にもきけずとまどった。
 たくさんの人…。なのにみんな何やら急いでいて、表情は固く、他人をよせつけない。
 キューバのように、ゆったりとにこやかに歩いている人がいない。
 私は、たくさんの人の中で、1人になったようで涙が出てきた。
 キューバであじわったことのない孤独。

 電車に乗ると1人1人話すことなく、ケイタイにむかって下を向く。子どもたちもさわぐことがない。
 キューバの暑い満員バスの中。熱気ムンムン。
 となりの人たちと大声で話し、ワーワーさわぐ子どもたちを、なつかしく思う。

ひとつひとつのアパートの部屋、家々、近所の人たちが、家の外で話しこんだり、楽しんでいるのを見ない。シーンとしている。
 キューバではどこでも窓ごしに通りごしに大声で話し、にぎやか。個々で生きることなぞ想像さえできない。
 キューバで暮らしているキューバ人には、日本の社会は想像もできないことだろう。

 キューバにはコミュニティがあるという。そうだと思う。
 私はキューバで連れあいエドと、畑を耕し、豚を育て、馬車で魚をとりに行ったり、原野に動物や自分たちの食べ物を捜しに行く。
 単調な毎日。でも道行くたくさんの人とあいさつをかわし、その日の米や砂糖、塩等々、なくなったら隣に借りに行き、日々のことを話したり相談したり。
 いつも声をかけあい、つながり、助けあえる。
 生活をわかちあい、1日1日を生き抜いている。

 日本でキューバがどう変わるかと心配する声をよく聞く。私は大丈夫と思う。
 革命後、幸せに生きるために何を大切にしなければならないか。何をしなければならないかを教育され、しっかりと根をはって生きている人たち、若者たち、その中で育っている人たちがいるから。

Yoshiko

 現在、地元である大阪の介護施設で働きながら講演会などで各地を行脚するヨシコさん。いつもハツラツ、元気いっぱいの姿と軽妙な語り(大阪弁)でとても刺激をもらいました。

上に掲載した「キューバをおもって」という手書きの文は、キューバを訪れたことがある人には言わずもがなの「キューバ」にあって「日本」に無いものが、軽やかに表現されていて思わずハッとさせられます。
「それは国民性の違いだ」
「個人の性格の違いだろう」
「日本とキューバでくらべるなんてナンセンス」
などと言って、やりすごすことは簡単だと思うのですが、この文章に綴られている内容にはとても大きなもの(社会的に、ということでなく個人レベルでの思考や行動についての示唆、とでもいうのでしょうか…)を含んでいるように思います。

上河さんへのQ&Aの後、場所を若葉駅前のカッピンドゥラードに移して懇親会が開催されました。

会場にお越し下さったみなさんありがとうございました。

 ブログ管理者

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