7月19日(火)

 ホテルへは24時、シャワー浴びて、荷物整理したら3時出発。4時過ぎになってもカウンターが開かれず、また飛ばないかとおもったが、7時直ぐに開かれた。重量オーバーで12CUC支払う。7時40分にヘロナへ。空港で日本の特別機を見る。誰かが来ている。
 エステバンと一緒にヨシコに家へエドワルドの母・ウッディーナが入院中のため、対応できない。10日間はフカロの原田さん宅へ、10日間はエステバンの家と決まった。その後、寝て過ごす。

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7月18日(月)

 8時新幹線出発、10時40分上野出発、11時30分成田着、メキシコからハバナまでのシート番号が不明、少し不安。14時20分に出発、13時20分にメキシコ空港に到着、一旦出国氏、再度入国とのこと。カナダとは違う、ダンボールは裸ではだめでビニールで包まなければならない。17時に乗り場に行くが、オーバーブッキングでシートが決まらす。最後にようやく乗れた。一安心である。22時にハバナ到着。

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キューバ・青年の島の島津三一郎さん

※ヘッダー写真は2008年の稲作支援計画視察ツアーにて老人ホーム訪問時の様子

新聞やテレビなどでも報道がありましたがキューバ日系移民一世の島津三一郎さん(キューバ・青年の島在住)がお亡くなりになったというお知らせが届きました。
以下は青年の島の湊・ナンシーさんから届いたメールの訳文の一部と(原文)です。


 

キューバと日本に大きな悲しみをもたらすお知らせです。私たちは日系移民のシンボル的存在を失いました。

日系移民のシンボルが去る2016年7月10日(日)、亡くなり、月曜日午後3時にフランシスカ・ナビア・クアドラド老人ホーム、青年の島日系人協会、保健所とその高齢者支援部門、自治体、党地方支部、地方紙の新聞社により埋葬が執り行われました。
彼らの臨席のもと、渡辺勝日本大使をはじめ日系人家族、彼の友人たち、そして、彼をすばらしき息子の一人として暖かく迎え入れてきた老人ホームから花輪が捧げられました。
故 島津三一郎(みいちろう、またはさんいちろう。キューバ人は単純にミゲルと呼ぶ)は青年の島の最高齢者でしたが、キューバ全体でも今現在では最高齢だったかもしれません。
彼は明治40年、1907年12月24日、日本の新潟県で生まれ、1928年春、5月6日にキューバに来ました。日本では子どもの日としてお祝いをする日の翌日です。彼は最期を迎える日まで、明るく幸せに満ちた子どものように生き、キューバでその生を全うしました。彼は「私はもうキューバ人だ。日本での年月よりずっと長くここにいるのだから」と言っていました。
2009年6月16日、在キューバ日本大使館から、かの国の総理大臣に任命された当時の日本大使 西林万寿夫さんをはじめとする代表の方々が島に来られました。
彼が「不平も言わず、不足を嘆かず生きてきた」と108歳になるまで誇らしく言っていたことはよく知られています。109歳になるまで残すところあと6カ月でありました。私たちは、彼を細心の心遣いでお世話をしてきた施設の働く人たちや仲間たちに看取られ、静かに、そして誇りに満ちて旅立ってゆくのを見守りました。彼らは、きっと彼の不在を寂しく思うことでしょう。

島津さん、どうか安らかにお眠り下さい。

私の哀悼の意が届きますように。
ナンシー・オロペサ・バルセロ
青年の島 湊家

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日本語訳—Sra. Kumiko Murakami

 

 

 

A Cuba y Japón los invade una gran tristeza hemos perdido un símbolo de la emigración japonesa.

Un símbolo de la emigración japonesa, acaba de fallecer el pasado domingo 10 de julio de 2016, su sepelio se efectuó el lunes a las 3:00 pm, conducido por la dirección del Hogar de ancianos Francisca Navia Cuadrado, La Sociedad de la Colonia Japonesa de la Isla de la Juventud, la Dirección Sectorial de Salud Pública y su departamento de Atención al Adulto Mayor, el Gobierno y el Partido Municipal, y la prensa localidad.

Se le hizo guardia de honor por los allí presente y presidía su funeral la corona enviada por el excelentísimo señor Watanabe Masaru, Embajador del Japón en Cuba, las del Partido y Gobierno local, y otras de las familias de descendientes y de sus amigos y dirección del Hogar de Ancianos que lo acogió en su seno como uno de los más distinguidos de sus hijos.

Miichiro Shimazu Kumazu san (Sanichiro o simplemente Miguel para los cubanos) es quien acaba de fallecer, el adulto mayor de más edad de la Isla de la Juventud, y posiblemente el hombre que más haya vivido hasta la actualidad en Cuba.

Nació en Niigata, Japón un 24 de diciembre de 1907, Año 40 de Meiji. Llegó a Cuba en la primavera de 1928, mayo seis, un día después de celebrarse en Japón el día de los niños y de esta forma como un niño alegre y feliz vivió en Cuba hasta sus últimos días, el mismo decía que ya era cubano, por haber vivido más tiempo acá que en Japón.

En junio 16 de 2009, llegaba a la Isla una delegación de la Embajada del Japón en Cuba, encabezada por el entonces Embajador excelentísimo señor Nishibayashi Masuo, quien lo condecoraba en nombre del Primer Ministro de su país.

Él siempre expreso que había vivido, sin quejas y sin faltas, y así con esos honores, es reconocido hasta la honrosa edad de 108 años, y solo faltando seis meses para llegar a los 109 años de edad, lo hemos visto partir en breve y silenciosamente, llenando de orgullo a esos trabajadores y compañeros del hogar, que lo cuidaron y mimaron con tanto esmero, y que mucho lo extrañarán.

Desde sus 100 años (2007), el joven Nakano Kenta san su coterráneo japonés ha historiado su vida, y ya cuando estaba a punto de terminar su historia, que triste noticia para todos, Cuba y Japón pierden un símbolo, de la emigración japonesa a Cuba, el último en despedirse, Shimazu san, Descanse en Paz.

Llegue mis más sentidas condolencias, por tan sensible pérdida.

Nancy Oropesa Barceló

Familia Minato de la Isla de la Juventud.

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2015年 11/30(月)

 ICAPの職員と接する最後の日。荷物整理をし、残った品物を渡す。
 貰った土産も多く、結構な重さになる。ガラス製品が心配だ。
 夕方にウリシート(ヨシコの甥・医大生)にエドワルドへの荷物を預け、時計を渡す。
 夜、ナンシーの家へ島津さんのいる老人ホームへのタオルを手渡す。島津さんは108歳、唯一の日系1世である。

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2015年 11/29(日)

 11時頃、昼食はサンドイッチ、8ペソ(50円)。日曜日は店も休みで家族が楽しむ日。子どもは観覧車に乗り、また、公園では家族皆でwi-fiを楽しんでいた。
 2時にナンシーの家へ行き、日本好きな若者へ日本の品物を渡す。オタクの女子大生は「ワンピース」に感激してくれた。折り紙好きでカワイイものに興味を持っている。日曜日は家族で集まる日、あんまり集まりがよくない。
 4時に帰宅、ガードマンへ日本語を教える。これは難しい。
 また、前回知り合ったオタクの男教師からキューバの竹で作った竹トンボと箸を貰う。竹とんぼは十分に飛んだ。

広場の公園の観覧車、1ペソで楽しめる
広場の公園の観覧車、1ペソで楽しめる
広場の500m以内はwi-fi利用可、PCやスマホを持った人達が夢中で楽しむ
広場の500m以内はwi-fi利用可、PCやスマホを持った人達が夢中で楽しむ
ナンシーが組織する13歳から25歳まで日本好き若者、日本の踊りや歌を演じてくれる
ナンシーが組織する13歳から25歳まで日本好き若者、日本の踊りや歌を演じてくれる
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2015年 11/28(土)

 6時のバスでシロレドンドへ行き、あまった衣服を渡す。
 エドワルドからヨシコへ渡すようにコーヒー、タバコ、ラム酒!を預かる。結構な荷物になる。
 アルベルトが今年栽培している米の生育経過の写真をコピーする。なお、最初の収穫は12月1日、ハバナへ渡る日である。
 10時過ぎにエドワルドの家の前で遊ぶ子ども達に竹とんぼを渡すと夢中で遊んでいた。また、割れたかわらや壊れた鍋でママゴト遊びをしている。50年前?の日本のシーンを見るようだ。
 5歳から8歳の子ども、一旦慣れると人懐っこく、接してくれる。もう少し早く、対応すればもう少し親しくなれたと思われる。
 午後1時のバスで帰宅。
 ノボルとクラウディアの訪問を受ける。クラウディアは松矢さんへの手紙とプレゼント(これもガラス製!)を持ってきてくれた。感謝。
 ナンシーに夕食をご馳走になる。普段使えるご飯茶碗がなく、足袋もないとのこと。次回に持ってくることにする。

お土産のトランプはキューバで売っていない。ババ抜きはみんなが楽しめた。
お土産のトランプはキューバで売っていない。ババ抜きはみんなが楽しめた。
シロレドンドのアルベルトの家の前で、竹トンボを渡したら夢中で遊んでいた
シロレドンドのアルベルトの家の前で、竹トンボを渡したら夢中で遊んでいた
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2015年 11月27日(金)

 午前、ヘススとオートバイの話をする。ムンドバットとの連絡が取れ、リストを準備するそうだ。ただ、昨日、エドワルドから聞いた電気自転車の話もした。月曜日に間に合えば、お金をおいていく予定にする。他にJICAと会ったこと、関口君の留学の話をする。
 午後に洗濯物をタマラの家に行く途中で写真を配る。
 午後5時にベリンダの家へ行き、プレゼントを持っていく。ベリンダは来年15歳のイベントを控えており、妹のイバニアは12月が誕生日である。バスタオルやトランプを渡すと喜んでくれた。そのトランプでババ抜きをすると本当に楽しんでくれた。
 松矢さんと彼のスペイン語の先生、私のお土産を渡してくれたが、ガラス製品と瀬戸物だった。高価で割れやすく非常に困った。松矢さんには手紙つき、帰国したら直ぐに松矢さんに届けなきゃ。
 夕方ノボル・タマラ夫婦に夕食を招待され、ビールを持参する。久しぶりにキューバのビール「クリスタル」を飲んだ。メインは魚のハンバーグ、手間が掛かる料理を堪能する。

ベリンダ、イバニア姉妹からのガラス製のプレゼント、高価で割れやすい品物を
ベリンダ、イバニア姉妹からのガラス製のプレゼント、高価で割れやすい品物を
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2015年 11/26(木)

 8時30分過ぎにフカロの人達と一緒にシロレドンドのアルベルトの田んぼへ行き、栽培状況を見てもらった。フカロの田んぼに比べると明らかに草の発生が少なく、大きさも小さいのが確認できたと思う。農薬は高いが、効果があること、また、手で取る必要も分かったと思う。なお、12月1日に1回目の収穫を行うとのこと。
 松矢さんから預かったチェ-ンソーはアルベルトに無事に渡しました。(アルベルトが使っていたチェ-ンソーはフカロに渡してあるそうです)
 アルベルトの家を去る時にJICAの職員と会った。話では指導者の育成を日本で研修を行ってきたが、青年の島を対象にするそうである。2008年にはキューバの農林省に笑われたことを考えると続けた成果が出ている。
 原田さん達フカロの人達と話して分かったところによると原田さんの娘は日本国籍を持っているとハバナ・マイアミ間の飛行機に乗れるそうである。45分、400~500ドルだそうだ。
 また、日本での人間関係の希薄さを残念に思っていた。
 3時に帰宅し、写真を配りにノボルの宅のそばに行った。ついでに竹とんぼを配った。

アルベルトの田んぼをフカロの人達が視察に来た風景
アルベルトの田んぼをフカロの人達が視察に来た風景
チェーンソーをアルベルトに渡しました
チェーンソーをアルベルトに渡しました
エドワルドによるお灸、初めて見ました
エドワルドによるお灸、初めて見ました
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2015年 11/25(水)

 朝、ICAPから55年記念の表彰を受け、昼食に招待される。なお、この日、所長のマレリンはニカラグアへの出張とのこと、プレゼントを渡す。
 午前、大学のヘススと話す。支援対象地域と行く手段として、オートバイか電気自動車を使ってはどうかと提案し、了解を得る。日本で確認した3,000EUを上限にムンドバットと連絡を取るそうだ。なお、余ったカメラを渡す。
 買い物時にベリンダの母親に会い、27日の午後に訪問することにする。
 夕方、クラウディアがお土産を持ってたずねてきてくれた。大学はハバナで英語を勉強するそうだ。

ICAPから55周年記念の表彰状を頂く。副賞はフィデルの写真とロングTシャツ
ICAPから55周年記念の表彰状を頂く。副賞はフィデルの写真とロングTシャツ
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2015年 11/24(火)

5時15分にICAP出発、飛行機は概ね予定通り到着、クバポン訪問団は無事、ハバナに着いたでしょう。
寒気が入ったことから長袖、上着を着て、出勤。日本人にはちょうど良い気温だが、キューバ人はfrio(寒い)と話している。日本の朝の気温が5℃と言うとびっくりしている。
ICAPへ宿代の代わりにTシャツ、ボールペン、石鹸を渡す。話の中で給料は15CUC、2日で1CUCとの話をする。政府機関は企業と違い、賃金が上昇していない。みんなに配布され、喜ばれた。

24日の朝は寒波襲来で寒く、キューバ人は長袖、上着をはおる
24日の朝は寒波襲来で寒く、キューバ人は長袖、上着をはおる
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CUBAPON El proyecto de arroz en la “Isla de la Juventud”